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海月(くらげ) ■本名 端無 徹也 (はなしてつや) ■棲んでいる所 熊野市飛鳥町佐渡874-1 ■やっていること ◆キタガワノホトリ 東紀州市民活動支援センター 尾鷲市北浦町1-8 ・付属施設 ・CReAM(クリーム) コミュニティカフェレスト (レンタル) 日替りコックさんのランチ 1日店長のお店 ・ヤキヤマロック (レンタル) ボルダリングスタジオ ・二瓶窯 (レンタル) 石窯 ・アトリエウミノハタ (テナントスペース) プロジェクトCReAM様 ステキ工房オワセ様 ・スギノハコ (チャレンジショップ) サロンHASU様 ・CO-DO(コドウ) (レンタル) ギャラリースペース ・音楽室 (レンタル) 音楽スタジオ ・名称検討中 (クラフトスペース) PureMarin様 ・キタガワマーケット 毎月第3日曜日 9時半~16時半 ☆告知 出店者募集 営業日 平日 9時半~16時半 TEL:0597-22-5554 FAX:0597-22-5554 mail:hcd.secretariat@gmail.com 駐車場有、トイレあり ◆(特非)みえNPOネットワークセンター 中間支援組織の集合体 ☆役職 理事 ◆東紀州コミュニティデザイン 中間支援組織 コミュニティカフェ事業部 キタガワノホトリ事業部 中間支援事業部 防災・減災事業部 尾鷲市北浦町1-8 キタガワノホトリ内 TEL:0597-22-5554 TEL:080-2627-2080 FAX:0597-22-5554 mail:hcd.secretariat@gmail.com ☆役職 事務局長 ☆職員 1名雇用中、1名募集中 ☆告知 支援者・支援金募集中 ◆一般社団法人熊野レストレーション 森林里山保全ボランティア テクニカル災害支援 森林里山保全事業 森林レクレーション事業 中山間支援事業 DRT事業 非公認の山岳部 尾鷲市北浦町1-8 キタガワノホトリ内 TEL:0597-22-5554 FAX:0597-22-5554 mail:hcd.secretariat@gmail.com ☆役職 代表 ☆告知 会員・賛助会員募集中 就農希望者募集中(2名) ■資格 普通自動車運転免許 アマチュア無線 第2種電気工事士 246類危険物取扱者 高校専修工業 中学校第1種技術 ■マイ動画 YouTubeへ kumano874 端無徹也にて検索 ■USTREAM owase874 最新の記事
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スギ花粉の季節になりました。
去年は何年ぶりになんともありませんでした。 「治った」と思わないように喜んでました。 やっぱり、ぬか喜びだったようです。 昨日あたりから、ちょっと目と鼻がむずい感じです。 いまはもう、確信めいて花粉症だと気づいています。 しかし、もう少しだけ、自覚しないことにします。 20歳にスギ花粉が出て、もう18年の月日が。 あの年、はじめての一人暮らしを大阪ですることになった。 飛鳥を出て行く前に、いまないバアチャン家の杉の大木の枝つきをした。大きな枝が、バアチャン家の瓦屋根にかかり、風が吹くと瓦をなめていくからだった。それまでも、バアチャンがおる間でも、枝つきはやっていたけど、大阪に行く前に、大掛かりに枝つきをやった。それも、ハーネスとザイルで確保するくらい、高いところまでやった。いまとなっては、それが大阪で暮らすことへの覚悟やったかもしれんかった。 で、ちょうどこの季節、黄色い花粉を体いっぱいに浴びながら…まさか、自分が花粉症になるとは信じてもなかったので、意気揚々と大阪に出て行った。 それから約1年、海月は体の偏重に苦しんだ。 まず、花粉症とわかるまでに時間がかかった。目が異常に痒くなって、目医者にいくにも、小学校低学年以来目医者に行ったこともなかったし、大阪の数ある目医者のどこがよいのかもわからなかった。我慢できなくなって近所に駆け込んでみると、「花粉症ですね」と洗眼をしてもらった。このとき、花粉症と自覚するようになり、1年目の花粉症はそれはそれは苦しみの数ヶ月を過ごした。 やっとのことで、花粉症が治まったと思ったら、今度は大阪の水に体が拒否反応を示した。気にはしていたけど、それ以上に花粉症が気になってたので、水はまさかと思った。体中に発疹ができるようになり、これも病院でアレルギー性じんましんと診断された。なんと、カニやエビや牛乳、小麦にいたるまで反応が出て、香辛料のきいた食べ物も受け付けなくなった。大のカレー好きだったのに。ある日は、腕がパンパンに腫れるほどに発疹が出て、息するのも苦しくなった。救急の病院では、「アナフィラキシーですよ。死ぬこともあります」と言われ、「好き嫌いのない体やったのに」と嘆いた夜もありました。 「大阪はアカン」と心が折れたときもありましたが、1年くらい経って、ようやく体が馴染んできたのがわかりました。食べ物に体が拒否反応を示さなくなり、当然に水も平気になりました。逆に、水を得た魚のように、大阪を楽しむようになり、自炊のレパートリーも、外食の食べ歩きも広がりました。あのころは、1日に4食は食べていたし、1回の量も半端なかったです。ちなみに、2合から3合くらいを、1回に食べていました。それでいて、体脂肪は一桁台を維持していました。某カレー店の大盛りを20分以内に食べると無料というのがあり、1週間連続で通ったら、「もう来ないで下さい」と真面目に謝れたのも懐かしいです。 人生のすべてを体験するくらいの毎日を過ごし、大学院の2回生のときに、2度目の偏重が来るのですが、これは毎日の行いへの罰であり、思うように進まなかった研究への焦りからでした。このへんは、気が向けばおいおい。 大阪は、20歳から24歳までの4年間だけでした。とくに、22歳からの2年間、大学院生だった2年間は、浮き沈みもありましたが、10年分以上の凝縮された人生経験をしたつもりです。誰しも、こういう時期があると思うし、このときの経験が、いまの糧となっています(この頃の睡眠時間は、1日1時間半から3時間だった!)。もちろん、24歳からの反動もありましたが、毎日毎日、生き急いでいる自分を感じていました。それは、中上健次に出てくる竹原秋幸を連想させるもので、重ねていた自分も確かにいました。30歳くらいまで、それこそ尾鷲に来る1年間の空白までは、そんな人生だったのかもしれません。昔のブログにも書きましたが、26歳説というのも影響していたと思います。 花粉症になると、大阪の頃を思い出します。あの頃に帰りたいとは思いませんが、あの頃のままであったら、いまの海月はいなかったと思います。成功していたか、死んでいたかのどちらかでしょう。そんな裏表の人生が、確かにかっこよいと思っていた自分がいました。尾鷲に来て、子どもができたいま、順風満帆だったはずの海月の船は、妻の大病で大きく傾きましたが、皆さんとの絆でどうにか浸水は免れました。また、子どもがいる以上、沈ませるわけにはいきません。それは、これからもです。 ちょっとさっきから、昔の長渕剛のメロディーが流れています。 オヤスミナサイ。
by kurage874
| 2011-02-28 00:34
| 尾鷲の足あと
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